モロッコ・マラケシュ|サハラ砂漠の風

モロッコ世界遺産|マラケシュ

マラケシュを都として栄えた王朝の特徴をとらえておくと、マラケシュでちょっとした歴史旅行が楽しめます。

ムラービト朝(アルモラビト朝) 

1062-1147年:最初のイスラム王朝、ムラービト朝(アルモラビト朝)は、 1062年セネガル川のほうからやってきたベルベル人 ユースフ・イブン= ターシュフィーンが設立しました。北部のタンジェや東方のアルジェ(1082年)をも征服し、その後はスペインのアンダルシア地方へも勢力を拡大しました。カスティーリャ王アルフォンソ6世のレコンキスタと戦うタイファ諸侯の救援のために、軍を率いてスペインまで渡り、一時はバルセロナまでムラービト王朝を拡大したほどです。南はセネガルやニジェールまで影響力を持っていました。

マラケシュにあるクッバ・バアディンは、このムラービト朝時代に建てられた水利設備で、敷地内の貯水池の水はオート・アトラス山脈から流れてきています。

2代目のアリー・イブン=ユースフの時代(1107-43年)にはアンダルシア文化がマラケシュでも栄えました。しかし、ムラービト朝の勢力は衰え、アリーの死後にはベルベル人の活動家 イブン・トゥーマルトが中心になり、ムラービト朝に対して宗教運動を繰り広げました。

ムワッヒド朝(アルモハッド朝)

1162-1269年:イブン・トゥーマルトの友人であり、後継者であったアブド・アル=ムウミニーンが、1146-7年にムラービト朝の主要都市マラケシュ、フェズ、アンダルシア地方の都市を制圧しました。アブド・アル=ムウミニーンは軍隊、政治、経済を立て直し、検地や徴税を行い、大学を建設し、1162年にはムワッヒド朝を創始しました。スペイン(アンダルシア)やアルジェリアの半分、チュニジアもムワッヒド朝の支配下でした。
アブド・アル=ムウミニーンの跡を継いだアブー・ヤアクーブ=ユースフ1世(アミール・アル=ムウミニーン)の時代には、哲学者のイブン・トファイルやイブン・ルシュド (アヴェロエス) などが活躍しました。

最もムワッヒド朝が栄えたのはその子のヤクーブ・エル=マンスールの時代(-1198年)です。東方は、現在のチュニジアからリビア西部まで支配を拡大しました。

クトゥビア

ムワッヒド朝時代に建てられたムーア様式建築の傑作。セビリアのヒラルダの塔と並び、世界で最も高く美しいミナレットのひとつです。モスク部分は残っていません。

マラケシュ クトゥビア

メナラ庭園

ムワッヒド朝時代に作られたオリーブの庭園で、中央にプールのような貯水池があります。

ヤクーブ・エル= マンスール以降、王朝は弱体化していきます。ナバス・デ・トロサの戦い以降スペインアンダルシアを失いました。ベルベル系遊牧民出身のマリーン家(マリーン朝)が北部のリフ山脈やフェズで勢力を拡大、南部でもサハラ貿易ルートを失います。1269年、マリーン朝のアブー・ユースフ=ヤアクーブがマラケシュを占領したことで、ムワッヒド朝は完全に滅びました。

サアド朝 

1517-1659年:サアド家はモロッコの南部のドラア川流域出身で、その後、タルーダント近くのティドレなど海に近いスース地方に修道場(ザウィヤ)を開設し支持を集めるようになりました。
アフマド・イブン=アアラジュの時代、1525年にマラケシュを占領したことでサアド朝が成立しました。サアド家の子孫は、スーフィズムに支えられたカリスマ的な霊力を持つとされる「聖者」(マラブー)にでまでさかのぼります。

サアド朝の全盛期は、アフメド・アル= マンスールの時代に訪れました。トルコ語を含む数カ国語を操るという天才的な人物で、外交にも優れていました。オスマン帝国の拡大を阻止したことと、ソンガイ帝国(南のニジェール川沿岸を中心に西スーダンのほぼ全域に広がる黒人王国)を滅ぼしたことで知られます。西スーダンの塩鉱を支配し、サハラ越えの交易ルートの安定化によりサアド朝への黄金や象牙の流入も以前より容易になり、
アフメド・アル=マンスールの死後も、サアド朝の繁栄はしばらく続きました。

しかし、16世紀、スペインやポルトガルは新大陸を植民地化したり、西アフリカ海岸沿いに多くの港を開発しました。このことにより、モロッコの重要な産物であった砂糖の値段が暴落しました。また、モロッコの港を通って輸出されていた黄金、象牙、黒人がモロッコを経由しなくなり、次第にサアド朝の力は衰えていきました。

ベン・ユーセフ・マドラサ

アブドゥッラー・アル・ガリブ(第4代目)によって建てられた神学校(の中庭)。この時代の建築技術の粋を集めたイスラム建築の最高傑作で、マグレブ諸国のマドラサの中でも大規模なもの。

サアド朝の墳墓群 

黄金王と呼ばれたアフメド・アル=マンスールをはじめ1549-1659年の代々のスルタンが葬られている墳墓群

エル バディ宮殿  

アフメド・アル=マンスールにより当時の粋を集め25年かけて建造された宮殿。
イタリア産の大理石、アイルランド産の花崗岩、インド産のオニキスや金箔で360室の壁や天井が彩られていました。アラウィ朝のムーレイ・イスマイル王により破壊、強奪され現在では廃墟となっています。

アラウィ朝

サアド朝が崩壊した後、アラウィ朝が成立し、都はメクネス、フェズ、ラバトへと移ります。しかし、この間もマラケシュは文化や政治の舞台として重要であり続けました。バヒア宮殿ダル・シ・サイド(工芸博物館)はそのころに建てられた建物です。

バヒア宮殿 Palais de la Bahia

19世紀のアラウィ朝・ムハンマド4世からアブドゥル・アジズ王の時代の首相(vizier)の宮殿。

Si Moussaの建てた宮殿部分の隣に、息子Ba Ahmedが建てたさらに豪華な宮殿が建っています。Ba Ahmedはモロッコ王国から腕利きの職人を集め、最上級の材料でこの宮殿を造らせました。メクネスから大理石が、ティトゥアンからタイルが運ばれ使われたといいます。大理石やZellijタイルが敷き詰められた中庭には美しい円柱や水盤が置かれ、主賓室が面し、アトラスシーダー材の天井にはアラベスクの彫刻が刻まれ、実に見事です。この部屋は一時、彼の妾の部屋でもありました。その奥には、広くて明るい中庭があり周囲に4人の妃と側女の部屋や、息子たちの勉強部屋や祈りの部屋があります。

モロッコがフランスの保護国であった時代にはリョーテイ将軍(Lyautey)も、また、現在の国王もときどき宿泊します。

Bert Flint Museum

(Musee Tiskiwin)マラケシュの19世紀の伝統的な作りの邸宅が博物館として開放されています。

モロッコ人の恋人を持つオランダ人・民族学者BertFlintが1950年代ここに住み、モロッコのスース地方やサハラ地方の民族衣装やジュエリー、絨毯、農具などをコレクションしていました。
アンチ・アトラス地方のジュエリーやダガー(刀)、リーフ地方の壺、オート・アトラス地方のカーペットなども展示されています。

ダル・シ・サイド Dar Si Said

宮殿のすぐ近くにあります。もともとは首相のBaAhmedの弟の邸宅として19世紀の後半に建てられ、今は博物館になっています。Zellijタイル、複雑な石膏芸術、彫刻が刻まれ彩られたドーム、扉、壺、カーペット、衣装、ベルベル人の生活様式、等々、一見の価値がある博物館です。
髪飾り、イヤリング、ネックレス、指輪、fibulas(ブローチのような刺す形のもの)、ブレスレット、アンクレットなどのジュエリーも面白いです。こういったジュエリーには、彫金やニエロ(黒金)やエナメルで装飾が施され、宝石・貝・サンゴ・琥珀・コインが散りばめられているのが特徴です。長方形、三角形、ひし形、円、クロス、ジクザクがベルベルの基本的なモチーフです。象徴的な意味を持つものもあります。例えば、片手の指につける5つのリングは生命、創造性、幸運の意味を持ちます。アラベスクや花のデザインは、ムーア人の正典から取られました。ユダヤ人職人から伝えられた技術のおかげで、都市にも地方にも精巧なジュエリーデザインが発展し、地方ごとに伝統的なジュエリーが展示されています。